現在の日本のお札の最高額1万円札に使われているくらいだからさぞかし善行を行ったのだろう。くらいにしか思っていなかった福沢諭吉さん。
福沢諭吉(1835年=天保6年~1901年=明治34年)は、民主主義・自由主義・平等主義・市民主義などの西欧近代思想を日本に紹介した啓蒙思想家であり、本人もそれら西欧近代思想を信奉していた「典型的な市民的自由主義者」「民主主義の先駆者」である。
軽く調べるとこのようなことが書いてあった。この経歴が国に貢献したと認められお札に乗ることになったのだろう。
しかし、よくよく日本の歴史を調べてみるととんでもない発言・行動をしていたようだ。
今回はそんな福沢諭吉の行ったことを紹介していこう。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の本当の意味
福沢諭吉と言えば『学問のすすめ』で書かれた『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。』という言葉が有名だ。この言葉は『人には上も下もない。みんな平等だよ。』という意味で学校で教えられる。今の日本人の99%はこの崇高な意味だと思っているはずだ。
ただ、この言葉の後ろには『と云えり』という言葉がついていることはほとんど知られていない。伝えりは『○○と聞いたよ。』という意味で、この言葉自体は福沢諭吉が発言したものではない。実は、天は…の言葉はアメリカの独立宣言の翻訳であり、と聞いたよと付けることで、私の本心ではないということを示しているのだ。
福沢諭吉の考えは学問のすすめを読み進めればわかる。要約するとこんな感じだ。『アメリカの独立宣言では人はみな平等と言っているが、実際は貧富に差がある。この差は何から生まれるか。学問だよ。勉強しよう。』→学問のすすめというタイトルにつながるのだ。
吾が輩は世界中の圧制を独占したい。
福沢諭吉が時事新報で書いていた社説の中にこのような記述がある。掲載されたのは1882年3月28日の新聞だ。要約してみるとこのような感じだ。
香港で商人が靴を売りに来た。その時私は暇だったので値切り交渉をしていた。すると、イギリス人が商人から靴を奪って私に渡し、私に2ドル出させて商人に渡した。その後、商人を追い払ってしまった。私はこの様子を傍観していたが、商人を気の毒に思うわけではなく、イギリス人のこの強引な態度を羨んでいた・・・。圧政を憎むのはされる側であって、する側に回れば最高の快感を味わえる。
吾が輩は世界中の圧制を独占したい。
この社説を読むと、今までの福沢諭吉の人物像が180度変わる人が多いのではないだろうか。私も今までは温和で民主主義を浸透させた人という印象だったが、圧政を行いたいと書いてしまうような人だったとは・・・。
新聞『時事新報』創刊
上の『圧政を独占したい。』という社説を掲載した新聞『時事新報』は1882年に福沢諭吉が作ったものだ。この新聞の基本方針は『国権皇張(=日本の権力を大いに主張する)』だ。要するに、海外に討って出るということに他ならない。福沢諭吉はバリバリの対外強硬派だったのだ。
独立自尊の本当の意味
現在の慶応義塾大学の理念にも乗っている『独立自尊』という言葉は、『自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する』ということになっている。
しかし、本来は明治時代に発布された教育勅語の精神であり、『日本帝国民が天皇家に帝室に忠義を尽くす』ことだ。もちろんこの理念を考えたのは慶応義塾創立者である福沢諭吉だ。
クーデターの段取り、資金援助を行った。
甲申政変(1854年)に福沢諭吉が関与していたことが手紙や暗号などから分かっている。甲申事変は金玉均を含む独立党が親清派を駆逐するために日本からの支援でクーデターを起こした事件。しかし、清軍からの反撃を受けすぐに鎮火した。
何とこのクーデターを起こすための武器は福沢諭吉の弟子が用意した。もちろん弟子の独断というわけではなく、指示があったことは確実だ。また、福沢諭吉がクーデターを扇動し、資金を与えたことは手紙や暗号から証明されている。
しかし、クーデターが失敗した後は福沢諭吉はしらばっくれていた。
まとめ
今回の内容は1万札の福沢諭吉の悪い面だけを抜き出して書いている。
だからといって福沢諭吉が悪人だったかというとそういうわけではない。いい面での功績も多数残していることは確かだ。
しかし、ものごとの一面だけを見てしまうのはよくないことだ。悪い面もしっかり見て人物を評価したい。