世界の発展に大きく寄与した偉大なる日本人の発明家10選

「多分彼らはクレージーと言われるが、私は天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから」

引用:スティーブジョブス

「日本人は猿真似しかできない。」と外国人にずっと言われていた。日本人が既存の製品を丈夫で使いやすく改良して本家以上の製品を販売していたことを皮肉った言葉だろう。自分たちが発明したのに日本製が売れるのはかなり悔しいはずだ。

しかし、よくよく調べてみるとすごい発明家たちがいた。君がお世話になった物もあるだろう。

少しでも多くの人にこの事実をお伝えしたいので、私の独断と偏見でランキング形式にして紹介しよう。

参考:十大発明家(1985年特許庁選定)|経済産業省



10位 本多光太郎(ほんだ こうたろう 1870~1954) KS鋼

本多光太郎は第一次世界大戦中に活躍した発明家。小さい頃は年中鼻水を垂らしており、学校の成績も悪かった。

第一次世界大戦中は諸外国との国交が少なくなり、輸入に頼っていた磁石が手に入らなくなった。これを危惧した本多は自国での開発を決意。

東京帝国大学に入学後、当時最強の磁力を持ったKS鋼を発明。KS鋼はその当時最強の磁力を持つといわれていたタングステン鋼の3倍もの磁力を誇った。

KS鋼の名前の由来は開発に寄付してくれていた住友吉左衛門のイニシャルを取ったものである。

9位 杉本 京太(すぎもと きょうた 1882~1972) 和文タイプライター

杉本京太は大正時代に活躍した発明家。

当時タイプライターは英語圏では開発されており、普及していた。当時のタイプライターの仕組みは、文字が刻印されているハンコを選びだして紙に印字するものだった。アルファベットの文字数が少ないからこそこの仕組みでよかったが、日本語のようにひらがな、カタカナ、漢字などが入り混じっている文字数の多い言語には向かなかった。

英文タイプライターの場合、文字の種類は48種類(4×12の配置)ほど、一方和文タイプライターの場合、2400種類ほどは必要だった。この2400種類のハンコをどこに収納し、どうやって選んで使うかが最大の難所だった。

英文の場合文字は横一列に配置されていたが、杉本は上下左右に動く機構を開発することによってこの問題を解決した。

1980年代にワープロが開発されるまでほぼ全ての企業、官公庁などで使用し続けられた。ワープロからローマ字制が導入されたので膨大なキーボードが必要なくなった。

8位 八木秀次(やぎ ひでつぐ 1886~1976) 八木アンテナ

八木秀次は東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後3年間をかけてイギリス、アメリカ、ドイツに留学した。その後東北大学の教授時代に”導波現象”を発見。

研究の最中に将来”短波長の電波”による通信が主流になることを予測し短波長電波を感知できる八木アンテナを発明した。

しかし、当時(第二次世界大戦前)の政府は八木アンテナの重要性を理解できなかったので注目されなかった。一方、欧米ではレーダーの性能を上げるために短波長の電波が重要だと気付き多額の研究費を投資して開発を進めていた。

その後、第二次世界大戦が始まり、戦局が終盤に差し掛かったころ、旧日本軍は敵軍の基地でレーダーの資料から”YAGI”の文字を見つけ、それが八木アンテナである事に気づき、研究を開始した。が、時すでに遅く、手遅れのまま終戦を迎える事となった。

終戦後八木は八木アンテナ㈱を設立した。

7位 高峰 譲吉(1854~1922) アドレナリン

高峰譲吉は三共(現在の第一三共)の初代社長。

高峰は東京大学卒業後、イギリスのグラスゴー大学へ留学。卒業後、農商務省に入る。退職後、農業系の研究を本格的に始める。

1890年には元麹を使った酒の醸造法を発明。これがアメリカのアルコール製造会社に採用されたことをきっかけに渡米し、ジアスターゼという消化酵素の単離方法を確立し特許を取得した。これはタカジアスターゼという商品名で販売され、消化薬として世界で有名になる。

その後、アメリカの製薬会社からアドレナリンの抽出方法の開発を依頼された。当時は溶媒を除去する方法はほとんど熱を加える方法が用いられていたが、アドレナリンなどの生体内の物質は熱で容易に変性してしまい抽出が困難だった。

そこで高峰は全く新しい方法である、減圧をして溶媒を蒸発させる方法を開発した。シカゴに移住した際に食肉会社の豚の内臓からアドレナリンの抽出に成功した。

アドレナリンは現在も医療現場で止血やショック状態の治療に用いられている。

6位 鈴木梅太郎(すずき うめたろう 1874~1943)オリザニン

鈴木梅太郎は東京帝国大学農芸化学科を卒業後、スイス、ドイツに留学し有機化学を学んだ。その後、同大学の教授となった。

当時日本軍では脚気患者が多く死亡者も少なくない状況だった。これを重く見た政府は臨時脚気調査委員会を設置し、調査を梅太郎に依頼した。

梅太郎はニワトリを使った実験を行い、様々な飼料を与えた。すると、白米を与えたニワトリは脚気になるが、玄米を与えたニワトリは脚気にならないことを突き止めた。そこで、玄米を白米にする際に取り除かれる米ぬかの中に原因となる成分が存在すると考え、米ぬかを分析した。すると、米ぬかの中から脚気を予防できる成分オリザニン(ビタミンB1)を発見した。

当時の脚気による死亡者数は日本国内だけでも15000人(当時の日本の総人口は4000万人ほど)いたという記録があるのでこれだけ多くの命を救ったことになる。

理化学研究所の設立者という顔もある。

5位 御木本幸吉(1858~1954) 養殖真珠

御木本は代々うどんの製造、販売を行っている家に産まれた。元々野心が強かった彼は、一旗あげるために上京した。

その際に真珠の売買を見学し、真珠が高値で取引されていることを知る。

その後真珠を自分の手で作り出したいと考えるようになり、研究を進めた。しかし、アコヤ貝は乱獲により数が激減していた。
そこで、アコヤ貝の養殖を始め、その中で養殖真珠の研究も進めていった。研究を始めて4年後の1905年に真珠の養殖法を確立した。

ヨーロッパの宝石商が養殖真珠は天然と比べて品質が明らかに落ちるので偽物だと訴訟を起こした。しかし、皮肉にもその訴訟により本物と変わらないと認められてしまったことによりミキモト・パールは世界に認められ、世界の真珠王と言われるまで知名度を上げた。

御木本は真珠の世界で大成功を収めた後、1927年に渡米し、幼少の頃から憧れていた、発明王トーマス・エジソンと会見を行う。「わたしには作れなかった物が2つある。ひとつはダイヤ、もうひとつは真珠だ。あなたが真珠を作り出したのはまさに世界の驚異だ。」と言わしめた。これに対し、御木本は「あなたは巨星のような存在だが、私は多くの発明家の一人にすぎない。」と答えたそうだ。この謙虚な人柄も相まって様々な人が投資し、成功を収めた。

4位 三島徳七(1893~1975)MK鋼

三島は農家に生まれたが、東京帝国大学での直属の教授に当たる三島家の養子となった。

鉄にニッケルを加えても磁力を持たないが、そこにアルミニウムを加えると強力な磁力を持つことを発見した。これに改良を加え、MK鋼を発明した。

MK鋼は本多光太郎が発明したKS鋼よりも磁力が強く、半永久的に磁力を保持できる。更には、製造する際の費用も安価なため広く普及した。ちなみに、KS鋼の発明が1917年、MK鋼は1931年。

MK鋼の発明は永久磁石史上の革命と言われており、現在まで使われているアルミニウム磁石の基礎を築いた。

永久磁石はスピーカーやマイク、発電機、モーターなど幅広い分野で使われている。




 

3位 丹羽 保次郎(にわ やすじろう 1893~1975) 写真電送装置

丹波保次郎は大正時代に活躍した発明家。東京帝国大学(現東京大学)出身。

大学卒業後、逓信省電気試験所に入った。そこで電気通信技術を身につけ、メキメキと頭角を現していった。丹羽の技術はすぐに知れ渡り、民間の会社にヘッドハンティングされる。

当時は電気通信技術はもっぱら海外からの技術導入に頼っていた背景があり、丹羽は独自の開発を決意した。

試験所で身に付けた技術とたび重なる海外視察で身に付けた知識により、民間会社就職後4年で現在のFAXの原形である写真電送装置を開発した。

2位 池田菊苗(いけだ きくなえ 1864~1936)L-グルタミン酸ナトリウム

池田菊苗は東京帝国大学理科大学化学科出身の科学者。

池田は日本人の生活の向上、社会の発展を考え研究を行っていた。

海外からの留学から戻り、日本で最初に食べた料理がとても美味しく感じた。その時に使われていたのが昆布出汁だった。昆布出汁に含まれているうま味成分を商品化することができれば、日本人の生活向上に貢献することができると考え昆布出汁の成分の研究を始める。

研究の中で昆布出汁のうま味成分がグルタミン酸ナトリウムであることを突き止めた。
その後、グルタミン酸ナトリウムを抽出し、結晶化させることで商品化に至った。

翌年から味の素㈱から調味料”味の素”として販売開始。日本人の生活向上に大きく貢献した。

1位  豊田 佐吉(とよた さきち 1867~1930) 木製人力織機

豊田佐吉は大正時代に活躍した発明家だ。名前を見てピンと来た人もいるだろう。彼は今のトヨタ自動車の礎を築いた人物でもあるのだ。

佐吉の父は農業を営む傍ら、大工仕事もしており、佐吉もそれを手伝いながら育った。人の役に立ちたいという欲求が人並み外れていたが、若いがゆえに何をすればいいのか分からないという日々が続いた。

そんな折、彼が18歳の時に専売特許条例が施行され、これを知ったことで発明家への道を選んだ。大工を手伝った経験から物を作ることが好きになった彼にとって天職だったのかもしれない。

その彼が作った物の中で一番影響があったのが、自動織機だ。当時普及していた織機は両手を使い縦糸と横糸を操作していた。佐吉が発明したのは横糸が自動で補充される織機を開発したのだ。

これは画期的で世界初の技術だったので、イギリスの世界トップ紡錘企業ブラット社に100万円で技術提供した。

この資金を元手に日本の自動車業界の発展にも寄与した。

まとめ

どうだろうか。

日本にも独創性を持ってまったく新しい製品を作り出した偉人達がいたことがわかるだろう。

10大発明家に選ばれた人たちは自分の利益を考えて発明を行ったわけではなく、日本の利益を考えて開発を行った。
自伝を読んでみると分かるが、全員一旗揚げてやろうという野心が強かったという共通点もある。

この記事を読んで、研究などの分野に興味を持ったという人が一人でもいれば私も記事を書いた甲斐があるというものだ。

優れたものを発明して一生悠々自適な生活を送ろう!

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